(番外編2)ジャカルタ歴史博物館

ジャカルタ観光に行きたい!となった場合や、誰かをジャカルタ観光に連れて行きたい!となった場合、本当に困ります。
これはイイ!と思えるものが、あまりありません。インドネシアが好き!と言える方なら、どこでもそれなりに楽しいのですけれど、例えば出張で来た方や、行く当てなくジャカルタに行ってみたいと言う感じの旅行で来られた方などが満足できる様に案内するのは難しいと感じます。当然、知識量や案内の技量などに左右されますから、私の場合が、そうであると言う意味で(^^;;

さて、そんな私が、良く案内するのは旧市街、Kota Tuaです。こことて小場所感が払拭できませんが、Batavia広場に行けば和蘭陀統治時代の名残を感じる事が出来ます。東インド会社の倉庫をそのままカフェにしたBatavia kafe、そして広場を挟んだ反対側にはジャカルタ歴史博物館があります。
f:id:Pelangi:20160506111135j:imageジャカルタ歴史博物館
f:id:Pelangi:20160506110415j:imageジャカルタ歴史博物館からみたバタフィア広場とその向こうにあるバタフィア・カフェ


もともとはオランダの総督府で、後に東インド会社の管理本部であったそうで、建立はファン·リーベック総督時代の1710年。日本では徳川の時代ですね。と言う事で、その頃の調度品がある様です。
f:id:Pelangi:20160506111654j:imagef:id:Pelangi:20160506111851j:imagef:id:Pelangi:20160506112410j:image

この建物は地下に悪名高い牢獄があります。天井が低く、立つ事が出来ません。
f:id:Pelangi:20160506112018j:image

こちらは女性の牢獄。水牢? 男性の牢も女性の牢も入口は屈まないと入れず、奥も屈んだままで、普通に立つ事は出来ませんでした。
f:id:Pelangi:20160506112127j:imagef:id:Pelangi:20160506112138j:image
会社のインドネシア人女性に、ジャカルタ歴史博物館に行く事を告げると、「そこには今も牢獄が残っていて、石の隙間には血が染み込んでいて、今でも鼻を近付けると血の匂いがするんですよ。」と、教えてくれました。血の匂いではなく、どっちかと言えばドブの臭いでした(^◇^;) 
また、白い影のオランダ夫人の霊が彷徨っているとも教えてくれました(^^;;

ところで、大東亜戦争の際、大日本帝国が進出して瞬く間にオランダ軍を駆逐し、この建物も大日本帝国に接収されました。有名なのは、この建物は大日本帝国海軍の前田少将が執務室兼住居にしており、独立宣言発表前夜には、後にインドネシア初代大統領となるスカルノに独立宣言文を書くために一室を貸したという話です。

余談ですが、本国の東条英機らはインドネシアの独立に積極的ではなかったらしいですが、前田少将は本気でインドネシア人は独立すべきと考えていたと言う事です。スカルノ自身は大日本帝国政府の承認の元で独立すべきと考えていたものの、他の派閥には大日本帝国の承認など不要と主張するものや、共産主義的な派閥もあり、皇国が敗戦を迎えた事で急遽、独立宣言を行う必要に迫られた様です。実際、皇国の敗戦の翌日、8月16日にスカルノは拉致されており(レンガス・デンクロック事件)、何とか説得してジャカルタに戻り、そのまま前田少将邸に集まって独立宣言文を書き8月17日に独立を宣言するという、正に緊迫した中での独立宣言でした。そしてこの後、再び舞い戻って来たオランダと英国などとの激しい独立戦争を経て、インドネシアは独立を果たします。戦端はスラバヤに上陸した英国軍とインドネシア人との衝突によって開かれました。但し、英国の目的はインドネシアで戦うのではなく、図らずも巻き込まれた形なのだそうです。